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でっかい独り言、内緒話に戯言三昧

でっかい独り言、内緒話に戯言三昧

確執

 それがいつ頃からあったのかは、覚えていない。多分、結婚したあとだったと思う。5年ほどつきあって結婚した時、お互いにもしかしたら子供は持てないんじゃないかと思っていた。(ま、それなりのつきあいあったしね)だからまわりには「とりあえず、生活の基盤を作るまでは子供は考えてない」と言っていた。ところがうるさい人と言うはいるもので、姑と(これは妥当??)母方の祖母だった。同じ頃に同い年のいとこが結婚し、こちらはハネムーンベビーだった。
 余談だが、私はこの子が大好きだ。最近は男の子っぽくなってしまったけど、お母さんであるいとこはいつも手を焼いていた(いる?)けど、本当に優しい子なのだ。その優しさは彼の言動が邪魔をしてなかなか理解してもらえないだろうな、都会で生きて行くには辛いだろうなといつも思っていたので、彼の一家が沖縄へ引っ越しをするとき、寂しい反面、これで彼は息がつけるんじゃないかと思った。だいぶのびのびしたみたいだけどね(^^;)

 さて、祖母への最初の明確な恨みはビデオだった。もともと子供が持てないかもしれないとびくびくして、問題を先送りにしていた我々だから、当然その話題にはふれられたくない。だんなは言わないが、仕事先ではかなりえげつないことを言われていたらしい。「子供の作り方知らないなら教えてやるぞ」なんて序の口。アダルトビデオのプレゼントなんてのもよくあることだった。そういうことも3年もすると神経がすり切れてくる。そんな時に祖母が送ってきたのはNHKの「生命の神秘」とか言うビデオだったのだ。手紙もやぶって捨てたから覚えてないが、子供が誕生すると言うことはこんなに大変な事なんだから、作らないなんていってないで作りなさい、みたいなことだったと思う。この当たりから、我々は追いつめられて行く。だんなは自分の実家で親に向って「オレの方に子供ができない原因があったらどう責任取るんだ」と叫び、結婚している(籍をいれている)から、子供がどうのこうのと言われるのなら籍を抜こう。そこまで話していたのだ。当時住んでいた近くには赤ちゃん用品の安売りで有名なところがあった。休日は妊婦さんとその家族のメッカだ。何度妊婦さんに殺意を抱いたろう。駅の階段から突き飛ばそうか、いや、手をださずとも横をぎりぎりで走り抜ければ、足をすべらすだろうとか、そんなことばかりを考える時期もあった。病院へ行くのが恐かったから行かなかったけど、自然流産らしきことも3回ほどあった。(本当はそのままにしちゃいけないんだよね。でも行けなかった)だから、本当に妊娠した時、恐くて恐くてたまらなかったし、誰にも言えなかった。そうだんなですら「本当に安定するまで誰にも言わないでおこう」と言ったのだから。

 そんな時、母から「入院することになった」と電話があった。それは怒濤のような日々の始まりを告げる電話でもあった。このあたりはまたいずれ…

 母は生まれてきたお嬢を、それはそれは慈しんでいた。ただ、あまり接しないようにしていた。なぜなら自分に未練が残るから。写真も絶対にとらせなかった。「こんな病気のときと違て、元気になったらとったらよろし」それが口癖だった。
 冬になり、容態は悪くなった。自宅よりも実家にいることが増えた頃、祖母が上京してくると言う(当時和歌山に住んでいた)親戚の法事の為だ。最初は実家に泊まると言ってていたのだが、私は断った。母の容態も芳しくないし、お嬢の世話と「とりあえず、適当になんとかして」ができない長姉への指示とアメリカに住む次姉との連絡で疲れ果てていたのだ。一応、祖母は親戚宅に泊まることになったのだが、数日後その親戚宅から電話がかかってきた。「赤ちゃんのお世話が大変ぐらいで、おばあさまを泊めて差し上げないなんて、どういうことなの?」母が病気であることは大抵の人は知っていた。が、病名や状況は全く知らなかった。「ご迷惑をかけて申し訳ありません、こちらで面倒見ます」それしか言えなかった。三十路になるまで、1回か2回しかあったことのない人に、こっちの状況もわからないのに、なんでそんなことを言われねばならないんだ?
 そして上京してきた祖母は、うかれてお嬢と自分の写真をとれと言った。「おばあちゃん、いつまで生きられるかわからへんしなぁ、写真とっとかな」そのままベランダから突き落としてあげようか?あとから知ったのだが、この状況に母の下の弟を伴っていたが、この叔父に「もう最後やから、○子に会うときや」と言っていたのだ。
確かにこの頃、意識がはっきりしていることの方が少なかった。でも「○ちゃん(お嬢)来たで」といえば目を開け「おばあちゃんくんねんて」といえば、思いっきり嫌そうな顔をしていたのだ。結果的にはこの10日後、母は旅立った。葬式に祖母は来ないと言った。「もうお別れは済んでるし」…アンタが逝けよ。
 葬式後、母のものをかなり持ち出したらしい。もちろん「これは私があげたもんやし、持ってくで」というのもたくさんあった。そんなことはどうでも良かったので、勝手にしろと思っていたが、その後2年ぐらいは「○子がこんなんもってやろ、使うてへんのやったらちょうだい」と言っていた。借りてくわな、と言った着物は未だに返ってこない。そうそう、母が父の法事の為に作った着物を、親戚の結婚式に来て行ける神経も凄いと思ったのもこの頃。この着物も返って来てない。

 49日の前に、お嬢の初節句がきた。最後の入院前、母は何度も何度もお嬢に「初節句までには、ばぁばも帰ってくるからね、一緒におひなさんだそな」と言っていたので、だんなも私も全くする気がなかった。まわりの心ある人はそっとしておいてくれた。ところが「初節句はやったげないといけない」と言う奴がいた。姑と祖母だ。姑からは3月になってから「おひなさまはいつ買えばいいんだ」と電話が来た。もともとおひな様は母が大事にしていたものをお嬢が生まれた時にもらっていて、それは話してあった。あまりの発言に何も答えずに「お姑さんがおひなさまどうする、だって」と
そのまま受話器をだんなに渡した事までしか覚えていない。だんなが怒鳴っていたような気がするが…祖母も同じだった。お金を送ってきて「お雛菓子でも買うたげて」…生後6ヶ月の赤ん坊にお雛菓子ですかい。お優しいことで…

 あなたはなぜ生きている?
父の葬式の時、父方の祖母にあなたは言ったね「○さんのこと、えらいけなしたはりましたけど、こないな立派なお葬式だせる人でしたやん」おばあちゃんにいい思い出なんか一つもない。子供心に分かるほど折り合いも悪かったし、かわいがってもらったこともお年玉をもらったことすらない。でもね、お葬式でうそみたいに小さく小さくなってしまった姿に、よくもまぁそんなこと言えたもんだ。あのおばあちゃんのうなだれた姿を見てまったから、母よりも1秒でも長く生きようと決意したのだ。子供を赤ちゃんの時に病気で死なせたことがあるくせに、何才になっても子供を失う痛みを知っているくせに、いけしゃーしゃーとそういう事が言える。「いつ死ぬかわからへんから」が口癖だが、娘よりも十分長生きしているじゃないか。おばあちゃんは父の3回忌とおじいちゃんの13回忌を終えて、ひっそりと誰にも迷惑をかけずに逝ってしまった。最後まで一人暮らしをし、たまたま裏のうちから見えるところで倒れ(外から家の中をのぞけるのは、この1か所、幅1mもないところだけ)そのまま入院もせずに逝ってしまった。そんな人にどうしてそんなにひどいことをあっさりと言える?

なぜあなたが生きているんだ?
もう父も母もいないのに、なぜあなたのお祝いなんぞをしなくちゃいけないんだ?
私の心はそこまで広くない。
あなたのお祝いをする話しを聞く度に私は思う。
なぜ私がしなくてはならないんだ?
「代われるものなら代わってやりたい」言うだけはタダだな。
そんな気ないくせに。
そんな気がある人が「もう最後やから会うときや」なんて言わないよな。
知っているよ、次姉に子供が産まれて、手伝いで私が渡米した時、
「○(私のこと)で役に立つのでしょうか。ママが生きていたら二人で何をおいてもいったでしょうに」って次姉に手紙を書いたこと。
次姉が鼻で笑いながら見せてくれたもの。母が「2度とおばあちゃんとは旅行せん」って行ってたのも知ってる。だって二人で次姉のところから帰った日、10分の愚痴を徹夜で聞いたんだから。
なぜあなたが生きているんだ?
私にとって、とてもとても必要な人は逝ってしまったのに。


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